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ジャズは眠らない [Jazz Never Sleeps]

JJ望月自叙伝「ジャズは眠らない」
2017年からFacebookへ掲載中の、JJ望月自叙伝「ジャズは眠らない」を掲載しています。



※Facebook掲載時、#4が重複していました。本ページでは順番を調整しています(文章はそのままです)。

#12
阿佐ヶ谷マンハッタン開店

[ジャズは眠らない] #12

青山墓地正門の前(道路をはさんで)のLeo's(朝までレストラン.バー.客席80〜)でのソロ活動を'80春に辞して、お客様で毎夜見えていた秀子ママと松本社長のお店、クラブDanに移籍、(青山日赤通り入口付近のビルの地下、土日休み)この移籍は正にパリヒ(バンド用語でギャラ上乗せでの引っこ抜き)でした。

Danは秀子ママ以下ホステス数名素敵な方々ばかりでした。店は真四角で壁にブラジリアの真筆の額が飾られており正に高級クラブ、一方に一段高いスペースがありグランドピアノとバーカウンターがありました。無論バーテンもシェフも生え抜きの方がおられ私の飲食の知識はここでのお付き合いが元でした。

お客様は財界のトップ、スポーツ会のリーダー、俳優、歌手、毎晩びっくりしてました。皆さん素晴らしい一流人の方ばかりで大変勉強になりました(酒の飲みかた、会話、立ち居振る舞い等々)エピソード一つだけ、秀子ママが先生(私の事)今日誕生日なのと言うと来店中の石原軍団の館ひろし氏がドンペリを取り寄せみんなで乾杯してくれたました。

ついでにもう一つ逸話を、当時毎晩30分だけ来店し、歌って飲んで、さっと次へ梯子酒のグループがテレビ朝日放送の編成局長兼取締役小田久栄門氏、鬼の小田久との呼び声も。私が'85に阿佐ヶ谷マンハッタンを創業の時には'ジャズは眠らない'との短冊とお祝い持参でマンハッタンに来て下さいました。とても感激したのを憶えております。

もうお分かりと思いますが、毎晩セレブの方々を生ピアノで伴奏し客席にもはべって飲みまくる、これが私の仕事で時にはお客様達の麻雀のお相手もママの指示でやりました、(隣が雀荘)この時のお客様の1人はロールスロイルで来られてて、別の日にかれの家まで運ばれて麻雀した事も有ります。柔道の山下団長一派とかプロ野球の監督と選手達とかの飲みっぷりには仰天でした、いつも高級ブランデー3〜5本ですよ、毎回ニコラシカとか壮絶な飲み方で私も巻き添えに。

さて'85阿佐ヶ谷マンハッタン開店ですが3年間位は早い時間は女性スタッフに任せて、深夜私がクラブDan出演終からの登場で、私がピアノで朝まで演奏誰か来ればジャムってました。阿佐ヶ谷マンハッタン開店の秘話と歴史は又機会があれば書きますね。

2021年9月3日


#11
ティブ釜やつ先生

[ジャズは眠らない] #11改訂版

'75に京王プラザホテルコンソートを辞して、暫くは新宿歌舞伎町の風林会館地下ホストクラブ、ナイトロイヤルで大島佑一(Cl.Ts)カルテットに参加、新頭(Eb)ケン今本(D)それにメンバーじゃないのに毎日深夜、歌いに来ていたボーカルのラッキー川端くん、今どうしてるかなー?

'77頃に知人がオーナーだった青山Leo'sでソロピアノをやる事になり、19:00〜4:00の間、全く自由に好きな時ジャズ的ピアノソロ演ってました。

時々トリオやカルテットでもやりました(貸切パーティ時)色々な方々との楽しい出会いが日々あり、ティーブ釜やつ(Vo.G)先生(ムッシュカマヤツの父君)ともここで初めてお会いし色々な方々を紹介して頂きました、例えば(敬称略)フランシスコ.キーコ、ペギー葉山、水森亜土、上野尊子、中本マリ、北村英治、- - -

'79クリスマスにティブ先生ゲストのパーティがあり先生の素敵なパーフォーマンスに感動しました!なのに翌年春3月急にご病気で亡くなられて大変ショックで暫くブルーでした。私のジャズマインドの師はティブ釜やつ先生です。

先生宅で当時のLeo'sのスタッフと私、ホームパーティー時の写真添付させて下さい。では又。JJ望月

2017年7月17日
[ジャズは眠らない] #11 Photo01


#10
ラッキー川端さん

[ジャズは眠らない] #10

1971にはラテンビーツ(前述のビッグバンド)を辞して、私は、ラテンジャズ系のアレンジメントを中心でやる事に成ります、古巣のラテンビーツの為や布施 明さんのバックバンドのコンソレーション(ピート山口、通称マリア氏がリーダー、当時のトッププレーヤーで組まれた最高のラテンジャズバンドでピアノの金山正浩さんが在席中でした。ドラムの中矢彬弘氏も居られたと記憶しております。)の為の譜面作りをお手伝いさせて頂きました。まだ未熟な私にアレンジの仕事を下さった二人のバンマス、に心から感謝致しております!

この仕事本当に楽しかったですよ、譜面が次の日には生音で聞けるそれもフルバンドや一流プレイヤーの演奏で!!

さてその後、依頼を受けて京王プラザホテルのサパークラブコンソートのシュガーカンパニー(佐藤良一氏、リーダー)に加入する事、に成りますが多分、1974前後の事です(京王プラザホテルは1971.6月open)。当時この箱での対バンは最高のジャズピアニスト野村耕一郎さんのトリオで池貝政俊(Dr)山口和与(B)の方々で毎夜このトリオが聴けて最高幸せでした(ギターの名手、光井 靖氏ともここで、確かショーの時でした)。

ここでの仕事はほぼ毎日日替わりで開催されるディナーショーの伴奏が主で3時からのリハが日課でした。だのに、23時頃終わるとこんどは歌舞伎町の風林会館ホストクラブ、ナイトロイヤルで深夜仕事、ここでは軽いジャズのみの演奏で大島祐一(Cl)新頭(B)ケン今本(D)望月(P H.org)ラッキー川端(Vo)でラッキーはオネーのジャズシンガーで365日毎夜遊びに来て朝まで歌って帰るのですがメンバーではなかったのです!

こんなジャズ愛溢れ真摯なひといます?ある時我々バンドがトラバンを入れて休んだ日にも彼は深夜やって来て控室にミュージカル風に大声で歌いながら入って行って気がついたら知らないミュージシャンばかりだったので双方が驚いたと、ラッキーは次の日 'ナニサ、云っといてよ、赤っ恥かいたわよ!'

深夜毎日ジャズりながら、楽しくて眠る暇のなかった頃のお話しでした、長文御免。JJ望月

2017年5月19日


#9
前田ヤスオとラテンビーツ

[ジャズは眠らない] #9

1963頃から大変お世話になった前田ヤスオ(靖夫?)(Tb)氏、(ブルーコーツからの独立)最初はラテンコーラスのクインテットで、活動は'拾い'で毎日色々な箱(店)とかパーティーでの演奏でした、定期的なものでは新宿ステレオダンスホール、上野池之端新世紀ダンスホール、新橋夜来香(ステージがゆっくり回転していて時間で二階から三階に移動してました!)、赤坂ミカド、横浜ゼブラクラブ、米軍三沢基地NCO、西立川米軍基地NCO、札幌グランドホテル地下のナイトクラブ、他で、休みは殆んど無かったと記憶している。

このバンドが1965頃急に、フルバンドに格上げされ、前田ヤスオとラテンビーツとなりました。活動場所は、都内の全てのダンスホール、赤坂ニユー美松、赤坂月世界、新宿クラブリー、有名歌手(青江美奈、千 昌夫、小川知子、他)との巡業、イベントでは、産経杯争奪社交ダンス日本選手権(午前中から夜までビッグバンド六つで交代で開催というスケールの大きなもので、ステージには常に二つのフルバンドが乗って代わる代わる演奏)毎年、武道館でやってましたね。

赤坂のニユー美松はマンモスキャバレーでホステスが500人以上、もしかすると1000人以上かも?居たみたい、店が東京ドームの四半分位の大きさだった様な記憶ですが?なにせステージは怖い位上の方にありました。月世界も巨大なナイトクラブでフルバンドが乗ったステージごと上下するエレベーター方式で下から上まではビルの三、四階分位のたかさで、これも怖かった!

追記、当時のフランチャイズは、ニュー美松はベン佐藤(Tp)バンド、月世界はクリッパーズ(渡辺弘スターダスターズの後)、クラブリーはスマイリー小原バンドで、我々はトラバンで定期的に入ってました。

2017年5月4日


#8
青江三奈さん

[ジャズは眠らない] #8

前田ヤスオ.ラテンビーツ(ビッグバンド)でのツアーといえば、青江三奈さんとの関西、九州方面への巡業、どこのホールでも超満員でした。

長崎の三菱造船所貸し切りのコンサートは三日間連続してやりました、青江さんはステージの途中(演歌でのヒット曲が10曲以上)急にスタンダードをやると言う指示をだすことがありましたがその時はリズム隊でやってましたね、彼女はとても楽しそうでした!

他に民音の仕事で北海道二週間の時はバスでの乗り打ち(公演終了後バスで次の現場まで移動早朝到着、旅館で休んで待機)の毎日。これはアントニオ古賀さんのショウでした。

キツイ仕事でしたけど凄く楽しく毎日元気でした。(北海道岩見沢市民会館での写真ありましたので添付しておきます、会館入口でのスナップ右から二人目ジャンパー姿が望月です)ステージの幕が上がるとまずバンド演奏でパンチのあるスゥィングジャズを数曲演奏、それからその日の看板が登場します、(写真ステージ中央にギターの名手アントニオ古賀さんのギターがセットされています先ず歌声から)わくわくするし、気持ちが揚がる瞬間でした!

1972年頃までラテンビーツで本当にお世話に成りました、ジャズやラテン、ショービズの素晴らしさ体感させて頂きました。

その後私は、京王プラザホテルのサパークラブコンソートでの佐藤良一シュガーカンパニーに移籍となります。京王プラザホテルは新宿副都心最初の象徴的高層ホテルで確か1971年のオープンで大変話題になりました。

2017年4月18日
[ジャズは眠らない] #8 Photo01[ジャズは眠らない] #8 Photo02[ジャズは眠らない] #8 Photo03


#7
新橋フロリダ

[ジャズは眠らない] #7

前回ダンスホール飯田橋松竹の話でした、私も27歳の時(1965)からラテンビーツ(Tb.Voの前田ヤスオ氏がリーダー)と言うビッグバンドに在席していて1970にはアレンジャーも兼任しており本当に死ぬ程多忙を極めておりました。

仕事はダンスホール昼の部、か夜の部、特定の歌手と地方公演、又は巡業、イベント(例えば武道館で産経杯争奪社交ダンス選手権大会)品川スケートリンク内ステージで演奏会、等々。出演ダンスホール!新宿ステレオホール、コマダンスホール、上野池之端新世紀、渋谷ハッピーバレー、有楽町ツインタワー東宝ダンスホール、伝説の新橋フロリダ(2回移転)、どのホールも絢爛豪華、満員盛況、特に夜の部は踊れ無い程混み合っておりました。

ステージでは5〜6種類のリズムの違う曲を1曲2分半〜3分位の長さで曲間は5秒でステージ中間に中ワルツを演る、無論全て標準ダンステンポ、これを大抵2つのバンドが交代で5ステージずつ位やってました。

チェンジバンドはタンゴかハワイアンのバンドが多かったなー、バンド付のボーカリストも居ました。曲目は定番のダンスナンバーか流行の曲をスペシャルアレンジで演ると好評でした。

ダンスホールのダンサーの先生方のバンドに対しての評判はとても大切でイベント出演等に関係して来ると聞いておりました。

伝説の新橋フロリダで撮影した宣材写真が有りました!(1966頃)貼付させてもらいます、写真のピアニストは私です。

2017年3月19日
[ジャズは眠らない] #7 Photo01[ジャズは眠らない] #7 Photo02


#6
シャープスアンドフラッツ

[ジャズは眠らない] #6

一昨年顔面の帯状疱疹で飯田橋逓信病院に入院しましたが、その飯田橋!僕のジャズの原点がここに?高校卒業直前の1955暮、スーツ着用大人気分で出かけましたけどとても怖かった、向かった先は、ダンスホール飯田橋松竹、当時噂のシャープスアンドフラッツがホームグランドにしていたホールで、絶対聞きたかった!!超満員ではじき出されそうだったと記憶しております、サウンドは夢の様に素敵で!ここが私のジャズの源流かも。

飯田橋駅辺りの記事は(Tom Tom club 街歩きに出かけよう)に先輩、五十嵐明要(As)原田忠幸(Bs)のお二方(どちらもシャープスに在席)が飯田橋松竹跡を訪ねる記事を掲載なさって居られます。

2017年3月18日


#5
橘さん(タマさん)

[ジャズは眠らない] #5

1957亜細亜大三年生の頃かな、東京駅丸の内中央郵便局側改札出た広場にバンドマンが午後に集まってその夜の仕事等をプロモーターから貰う(ピアノ居ませんかーのコールに は~いと挙手、20分位で解散)、この現場に行き神田のキャバレーの仕事貰ったり福生のキャンプ周辺の夜店での仕事もらったりしましたけどこれがレギュラーメンバーに成れるチャンスでもありました。

前回話題にし吉祥寺の喫茶店シェモアで沖縄から来られた橘さん(タマさんとも呼ばれていた当時40歳位か?)にお会いして誘って頂いたのもこの頃で彼は、キャノンボールスタイルのバリバリの名手でフルートもクラも素晴らしかったです。

彼のバンドではピアノとアコーディオンの両方を担当させてもらってました、リーダーがクラの時アコに持ち替えをやりバンドサウンドが好評でした。丸の内クラブ(神田寄りにに在った深夜営業のナイトクラブ、料理は中華料理で入口は閉まっていて小窓から顔をチェックされもしかして合言葉も必要だったかも?)とかベースキャンプでの仕事が少しづつ増えて行った時期で、沖縄のタマさんには大変お世話に成りました本当に!

当時のタマさんの写真一枚出てきたので公開しますが親族の方かお知り合いの方是非とも御連絡下さいませ。

阿佐谷マンハッタン望月保孝

左から二人目が私

2017年3月16日
[ジャズは眠らない] #5 Photo01[ジャズは眠らない] #5 Photo02


#4
内山善雄さん(ウーさん)

[ジャズは眠らない!] #4

1957年頃の吉祥寺南口、丸井の左側を井の頭公園に向かって行くと左側にシェモア(店名France語)と言う2階建ての喫茶店があり昼間時々演奏させてもらってました。

お洒落で素敵にサウンドするお店でオーナーはパイプをくわえてベレー帽のダンディな方でした。当時私は亜細亜大学二年生で他の大学の連中との交流場所もシェモアでした。今弘前に居られるベーシスト内山善雄さん(通称ウーさん)との出会いもこの店でした。

この店からのジャズ的ハプニングは又今度直ぐ!

JJ望月

2017年2月22日


#3
有楽町ビデオホール

[ジャズは眠らない!] #3

私の大学生(亜細亜大商学部)時代1957前後.有楽町ビデオホール、駅の直ぐ近くで敷地が三角形の様なビルの六階だったと思う.そのホールで週末特に土曜日深夜、結構何回も行った憶えがあるのが、トニースコット(Cla)カルテット 菅野邦彦(P)鈴木 勲(B)ジョージ大塚(D)だったと記憶する。

大迫力の演奏でトニースコットが仁王立ちで爆演していた姿今でもまざまざと思い出します!司会はロイ ジェームス(多分?)。

眠気皆無のミッドナイトジャズで病みつきになり仲間を誘って毎回行ってました。

では又 JJ望月

2017年2月18日


#2
銀座 銀巴里

[ジャズは眠らない] #2

1960年代初頭、私は仲間と毎週金曜日の夜、銀座の銀巴里(本来シャンソンの店)にジャズのセッションを聞きにでかけた、高柳、金井、富樫、菊地、の諸氏他数名で開催されていた。

私は何時もその当時相当難解だった種類の音楽の現場に通ったものでした。セッションは深夜まで続く事もあった様です。確か主催は新世紀音楽研究所とかでした。

阿佐谷マンハッタンJJ望月 では又!

2017年2月14日


#1
今でも徹夜です!

[ジャズは眠らない] #1

1958年の亜細亜大二年生くらいからずつと、演奏活動をやってきました。

オフの日には午後から古レコード屋、有楽町にあったハンター等に、夕方から西銀座デパート内の不二家ミュージックサロン(スイーツの不二家が経営)にライヴを聞きに、深夜からは吉祥寺北のジャズ喫茶ファンキーで夜明けまで、とこんな感じだった。

深夜のジャズ!喫茶店以外にも先輩が出演中のナイトクラブに挨拶まわり、米軍基地の周辺探訪、無論自分が深夜仕事の事も。で、毎週土曜日は今の自分自身のジャズに対峙する熱量や体力を確認出来る日なのです。

JJ望月

毎週土曜日はライヴ(20時〜)のあと25時頃からジャムセッションを開催していますので今でも徹夜です!。

2017年2月11日
[ジャズは眠らない] #1 Photo01